2011/05/30





タイで働いて、早1週間。
何ヶ月もここにいたような気がする。

いったいここから何を得ただろう。
立ち止まって考えてみる。

2011/05/23

Why can't Japanese speak English.

なぜ英語が話せないんだろう。
いろいろ見たり話を聞いたりすると、
僕だけではなく、どうやら世間一般的に、
中国人と日本人は英語が話せないと言われている種族らしい。
(もちろん、他にもあると思うけど)

あー、なんか悔しいよなー。

世界に置いて行かれるのが。


日本の英語教育も変わらなかったら
更に事実上の”鎖国”は進むだろうし、
それに気付いている人は、どんどんインターナショナルスクールや、
海外に出て教育をさせるんだろうし。


というわけで、今の日本に対して
世界に通用する英語教育を導入することを考えてみた。

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コンセプト:国際化による学校デザイン
事業対象:地方の公立小中学校
事業:
①フィリピン人教師の招聘。
②スピーキング試験の導入。
③校内すべて英語表記。
④教師間も英語による会話、書類もすべて。

ターゲット:
【1】6歳〜15歳の日本人。
【2】フィリピンなど海外と姉妹都市として、友好関係を結びたい自治体。(Ex:静岡、山口、鳥取、島根などなど)
【3】日本で出稼ぎしたい20代〜30代のフィリピン人。

期待される効果:
【1】
・フィリピン人による本格的な発音と英語によるコミュニケーションを学ぶことができる。
・英語を話せることにより、外人の友達が増える。

【2】
・安価な英語教育を強みとして、高額なインターナショナルスクールとは差別化。
・姉妹都市としてのきっかけ作り

【3】
・金を稼げる。
・英語と日本語を使え、今後も日本で事業展開できる能力を身につけられる。

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むむむ..
文字にしてもイメージがわかないし、
なぜか本質的じゃない気がしている・・。

やっぱ、お客さんである、
学校に行かせる日本人の夫婦に対する効果が薄いのかな。
フィリピン人が英語を堪能に話せるっていう証明もできてない訳で。

うーむ。

2011/05/19

Pray for Japan. マジで日本は祈られてるのかもしれないな・・



昨夜は日本人の経営者の方に話を伺う機会があった。
話の内容を備忘録として書いとく。


とりあえず、昨日は、
日本に対して強烈な危機感を覚えた日だった。



まず、"Made in Japan"に対して。
僕のイメージ、まぁ少し前の人なら共感できるかもしれないけど、
Made in Japanというと、海外からも好印象だった。
なぜなら日本製品は精密で正確、クオリティも高いものを作っていたから。

しかし、「今やMade in Japanは海外では通用しない」という話を聞いて
戦慄を覚えた。
電子機器はタイでも買えるし、インドでも買える。
クオリティに差はないし、逆に日本製品の取扱説明書は日本語で書いてあるから、
何書いてあるか読めない。

日本製品が売れなくなる。


じゃあ、この次に何が起こるか。


雇用が減る。
日本のメーカーが海外に移転して、
コストを抑え、海外市場を展開しようと躍起になる。
すると、日本の工場は閉鎖し、働けない人が増える。

タイなどの発展途上国では、
日本企業の海外の工場を日本人がマネジメントしてることは多いらしいけど、
じゃあ果たして、工場が閉鎖したとき,
日本人はマネージャーとして働けるかっていうと、
そこまで能力を全員が持ってるとは限らないし、
そもそもポストがない。
ポストがないってことは、母数が増えるから水準がぐんと上がるってことだ。
やっぱり優秀な人じゃないと生き残れない。




じゃあ、視点を変えて工場が駄目なら、
観光大国として発展させよう!
日本は独自の文化持ってるし!よっしゃー!








・・と仮にした場合、
これまた大きな問題が立ちふさがる。









ENGLISH.










日本人は英語を話せない。
話す習慣がそもそも無い。

外人が道に迷ってもほとんどの日本人が
流暢に英語を話すことができない。

店で英語が通用しない、
そもそも英語のメニューを置いていない。


外人が観光しにくい国。




加えて、今回の震災


外人は更に観光に来なくなり、
Made in Japanは通用しないどころか、
輸入を断られることも多くなってしまった。


もっと言えば、池田氏のツイートにもあったように、


電気が足りなくなり、料金が上がって工場が海外移転し、雇用がなくなって貧しくなるのは、たぶん5年以上あと。そのとき「ヒステリックに原発を止めるんじゃなかった」と気づいても遅い。



原発を停止させることによって、
更に雇用が減る。

与党が掲げていた「まず雇用を。」というのは
この震災でどっかに行って消えてしまった。



でも日本のきめ細かいところや、
清潔感、サービス精神はやはりすごい、と彼は言うけど、
じゃあ勢いのある国にそれで勝てるのかっていうと、
それこそ数字に出にくいところが秀でているから、勝てるかはわからない。
というか、生き残れるかわからない。

サービスを良いと思うか、悪いと思うかは、
お客さんのバックグラウンドに大きく左右されるものだと思うし。







僕は日本にいたころから、
日本が好きで、なんとかしなきゃいけないと思って、
若い人たちの投票率を上げる活動に携わっていた。


けど、それって悠長な話で、
既に政治や産業に興味を持つというか、
フルコミットしても勝てないくらいの差が、
そこにはあるんじゃないかと思ってしまった。




急に日本の未来が見えなくなってしまった。
あー、どうなるんだろう、日本。




海外の日本人ってこういう危機感を感じながら、
日本を眺めているんだな。
改めて思った。


Pray for Japan.
マジで日本は祈られてるのかもしれないな・・







あと、ここに書いた話は、ほぼすべて
彼の受け売り。
もっと僕自身の視点で、日本を見られるようにならないと。
やっぱり思考に思考を重ねる努力が必要だなう。

2011/05/18

言葉以上のもの

いつも美味しいご飯を作ってくれるゲストハウス1階にあるレストラン。
おばちゃん二人が切り盛りしてる。
露店と違って、ちょっと値段はするけど、
それでもめちゃくちゃ旨い。


この日はあまりに美味しかったものだから、
キッチンまで行って
「Very delicious,your cooking food! Thanks.

って言って来た。すると、おばちゃんたちは
ウェイターたちに
Very deliciousって言われたよ」
って言ってるのが聞こえた。


気のせいか、ちょっと嬉しそうだった。



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人を喜ばせるって、結構難しいことだと思ってました。
何か特別な、でかいことをやって、
初めて得られるものなんだろーな、って。

でも言葉ひとつであんな嬉しそうなおばちゃんたちを見ると、
本当に小さなことでも喜ばせることってできるんだな、と思いました。

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前の記事に少しナーバスになって人を信用できない..と書きましたが、
今早速ふりかえると、それも当たり前だな、と思います。


だって、僕自身が心を開いていなかったんだもんね。
難しい顔してるやつには、やっぱり話しかけにくいし、
相手も警戒心を強くしてしまう。

もっとおおらかに、寛容に

文化が違うんだから,衝突は当たり前のよっちゃん。
恐れてちゃーずっと苦手意識持ったまんまですね。

2011/05/17

バンコク5日目。

バンコク、カオサン通りの朝。




旅も早5日目になりました。
矢のように過ぎるのが早く感じます。

この旅、はて充実しているかっていうと、
強くうなずくことはできないな、、というのが正直なところです。
常に自分の荷物や食べ物のことを警戒していて、
手放しでゆっくりリラックスできてません。

何より信頼できるタイ人に出会っていないことが大きな要因なのかな、と思います。
ここの人たちは普通にToo expensiveな値段をふっかけてくるし、
女なのか男なのかわからないし。

そういうのも含めて楽しむ余裕もあれば、と思うわけですが、
なぜか生まれないな、、と考えてたわけです。
やっぱり日本人が一番安心するな、とも思ってしまいます。
あんまりこういう思考、この旅じゃしないようにしていたんですが。





そんなとき、本当にたまたま、友人とTwitterを通じて
カオサン通りで再会することができました。
以前勉強会で知り合った友達で、深夜0時くらいに再会して、
3時くらいまで話し込んでました。

彼はすごく自分の欲求に素直で、
それに対する努力もかなりしていて、
話を聞いててすごいな、と思うことがたくさんありました。


何より彼は旅を楽しんでいることが
すごく印象的でした。



まぁ、言ってしまえば、パスポートさえ無くさなければ、
日本に帰って来れるわけで。


もっと言えば、パスポート無くしたって
生きていられるわけで。



もっと自由に生きてもいい。


失う覚悟とそれでも生き抜くという覚悟だけ持って、
いろんなところに突っ込んで行けば良いんだよなー、と思いました。


自由な旅に出たのに、
いろんなことに縛られてることに気付いた昨夜でした。笑

2011/05/14

Comfortable zoneを抜けるということ



昨日は日本を11時に出国して、
17時半(現地時間15時半)にタイに入国しました。


空港までは母が見送りに来てくれて、
なんというか、その風景が忘れられずに、
ずーっと機内はタイの意味不明な音楽を聴きながら
ぼーっと感傷に浸っていました。笑


「日本は機内食より美味しいものがあるのになぁ、、」

「日本だったら普通に暮らせるし、なんで海外に来てんだろ、、」


とかいろいろ考えていました。


いわゆる、ホームシックを発症。笑





こういう快適な場所や居心地の良い場所って
そこにいるときは、その良さになかなか気付かない。
やむを得ない状況だったり、意識しないと、
なかなかその場所から抜け出すことができない。

例えば、日本という場所だったり、実家だったり、
学生という身分だったり。


でもそういう、気持ちのよい場所から抜け出したときにこそ、
成長って言葉があるんじゃないか、と僕は信じている。


まぁ、言ってもタイもなかなか心地が良い。
でもそれは、まだ現地の人とちゃんと会話してないから、
雰囲気を楽しんでるだけなんだけどね。

言語を鍛えないと、何もできない、何もしてもらえない。


そういう環境にとうとう来たんだと自覚し始めてる。

2011/05/13

いよいよか。

いよいよ10時間後には出国です。


日本から書く最後の記事。
何を書くかすごく迷いましたが、
もう一度、気合いを入れる意味も込めて、
以前書いた記事を転載しようと思います。


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2010.10.16

今日は三者面談という名の飲み会、でした。
大学のお世話になっている先生と、
22にもなるのに、未だに三者面談とはお恥ずかしい限りです。

内容は進路についてでした。




えーっと。








僕は、来年の4月から12月くらいまで世界一周に行ってきます。
就職活動はして、内定もいただいていたのだけど、
なんか気が進まなくて。

だから働くよりかは、
もっといろんなものを見たいな、いろんな人に会いたいな、と。
要するに、行きたくなったから行こうと思いました。



だけど実は、親の了解はまだ得られていなくて。
9月に両親に話をしたんだけど、喧嘩別れというか
理解してもらうことができずに実家に帰ってしまったんです。
まぁ、行きたいところはぼんやりあるけど、
何日にどこに行くとか決まっていないし、行きたくなったから行くという
極めて単純な理由で行くので、理解されないのも当然かもしれません。




それでもそれじゃいけないからっていうことで、
親父が「お前じゃ話にならないから先生と話をさせろ」ということで
三者面談が実現したわけです。いやはや。








そして、今日。




日々卒論でお世話になっている先生にわざわざ時間をいただいて、
先生の家の近くで一杯やりながら親父の話を聞いてもらうことに。


まぁ大学の先生が保護者と一杯交わすなんて
先生にしてみても初めてなわけで、いつもよりやや畏まった様子で始まりました。



それで約3時間とちょっと、お話をさせてもらいました。
でも、当の本人の僕がしゃべった言葉はほんの、3言、4言。




ずっと、親父と先生が話していました。
僕の、将来を肴に。




実は僕にとって、4月から旅に出るなんて
近くのコンビニ気分なんだよね、本当に。
カッコよく言うと、ビビッとインスピレーションが来て、それに従っただけ。






もちろん、大学卒業を控えて就職しないリスクは、ずっと(今でも)傍にあって、
人と異なる道を歩んだことのない僕にとって、
先の見えない道を選択することは、とてつもないリスク
でも、それでもなんとなく行きたいなって思ったんです。
だから行こうかな、と。



いろんな人を不幸にさせる選択だとは思っています。
けれど、どこか自覚がなくて(もしかしたら今でもないかもしれない)
「まっ、俺の人生だし」と開き直っている部分もあるかもしれません。






だからこそ。






だからこそ、「俺だけの人生じゃないんだ」という
またいつか読み返すときの自戒として、夜も遅いけれど残そうと思いました。



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正直言って、こんな会になるとは予想だにしませんでした。
普通に、話して、飲んで、ササッと終わるものか、と。




























涙を、流すかと思いました。





あまりに、二人が熱心に語るものだから。
あまりに、二人の想いが強かったものだから。




僕は、本当にたくさんの人に支えられていたんです。
それをね、今の今まで知りませんでした。いや、忘れていたんだと思います。



僕にとっては気の良い、面白い先生。
馬鹿話もしながら、楽しいゼミをやってくれる。














でも本当は。










でも本当は、とても見てくれていて。
こんな僕のことを常に、気にかけてくれていて。
今日だって、僕の進路を認め難い親父に向かって、
まるで自分のことのように頭を下げていました。



「濱村が寄り道することを、お父さんに認めていただきたい。」






「僕は濱村が羨ましいんです。彼が何をしたいのか、
僕にははっきりとはわからない。
けれど、彼がどうなるか、我が子のように楽しみなんです。」




「こいつは、なかなかいない学生で。今年の9月から旅に行けばいいものを、
学類の友達に世話になったからって、卒業イベントの責任者までやるんです。
こいつは、いいやつなんです。」











たかが学生一人のために、
ここまで言える大人が、何人いるでしょうか。
嬉しかった、本当に。








あらかじめ、先生に親父を説得するよう伝えていたわけでもない。
本音で話してほしいとも言っていない。
ただ、「親父が来るので時間を作ってほしい」とただそれだけ。






先生とはもう、3年の付き合いになります。
だけど、こんなにも真剣な表情でこんなことを言う姿は見たことがありませんでした。
だから、嬉しかった。









僕は、就職活動にも失敗して(自意識はないけれど就職しなかったという点において失敗)
来年4月から旅に行く、という極めて気が狂った学生なのに、
こんなに気にかけてくれていることは本当に、嬉しいことでした。












そして、肝腎の親父は。
















「旅に行くことについて、反対はしない。親子の関係であるし、
どう転んだって応援はする。」












「ただ。」





















「つらい。」







そう言っていました。
恥ずかしいですが、聞いた瞬間、涙が出るかと思いました。




親父はそれまで、
「しっかりやれ」だの「勉強しろ」だの、
説教めいたことしか僕に言ってきませんでした。





強情な人だから、感情を表すような言葉を言っていたことも
記憶を辿ってみてもない気がしています。






そしてその親父が頭を抱えて、「つらい」と。











その瞬間、思ったんです。
「この人生は、俺だけのものじゃないんだな」って。
たかが22年間そこにいただけで、
いつの間にかたくさんのかけがえのない人を巻き込んできていました。





それって当たり前のことなんだろうけど、それを忘れていることって実は多くって






だから改めて自覚しました。
本当に幸せ者だなというか、馬鹿野郎だな、というか。









5月からの旅でどんなことが得られるかわかりません。
LOVE&PEACE、高橋歩のような旅にはならないだろうし、
金がなくて、言語通じなくて、いろんな苦労をするのだろうと思います。





でもなんやかんや、人が好きな僕だから
どこぞで楽しんでいると思います。







というわけで、4月から休学して世界一周、行ってきます。
絶対に、生きて帰ってくるよ。




それだけは、絶対に約束する。
それが、親不孝な僕にとってできる、最大で最高の約束です。






ちょっと、大げさすぎたかな。笑
まぁ、こんなやつですが末永く、宜しくお願いします。





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読み返すと、あのときと思いは変わらないな、と思い安心する。

さて、宣言するのはもうこれで終わり。最後に。









必ず生きて帰ってきます。
その間、みなさんもどうか、お元気で!



それでは!

2011/05/11

Sweet Memories

部屋に一人でかっこつけて聞いてる。

落ち着く。



東北に行ってきました。

出国まで時間があったので、
@Yutakasuwaと@okenji45と一緒に東北まで行ってきました。

正直、動機は「自分の目で被災地を見たい」という思いだけでした。
(もちろん避難所の方々に迷惑をかけないことは大前提)
いわゆる軽い動機でしたが、
大事なことを感じることができました。


偶然にも大学の先輩@pyonta5566 から
行ってきたことを記事として書いてほしいと言っていただき、
Tsukuba For 3.11の記事を書かせてもらいました。

(※Tsukuba For 3.11は筑波大学の学生が東日本大震災のボランティアを体験し、
「自分たちでも何かできることはないか?」と結成した団体だそうです。
 大学生がボランティアに行きやすい仕組みづくりを行っています)

以下、転載になりますが
ざっと読んでもらえたら嬉しいです。


濱村拓巳@南三陸町・ボランティア活動報告(4月29日~5月3日)

4月29日(金)~5月3日(火)に宮城県・福島県で災害ボランティアに参加してきた、
濱村さんに情報提供していただきました。

以下、濱村さんの災害ボランティア報告(南三陸町)です。


【名前】
濱村拓巳

【学類または研究科、学年】
生物資源学類5年

【期間】
2011年4月29日~5月3日

【活動場所】
宮城県南三陸町、福島県郡山市
(郡山市の活動報告は
別記事に掲載)

【参加経緯と活動外情報(登録団体、移動手段、宿泊所、食事等)】
参加経緯は、研究室の先輩が既に現地で活動しており、
そこに
同期がボランティアに行くというので便乗した。

車は同期の自家用車を使い、宿泊場所は車内泊とテント。
食事は自分たちで持参をしていたが、
避難所で余った食料をいただくことが多かった。

【活動内容】
子どもたちとの遊び、木材を使った家具作り、
薪割り、トイレの排水運び、ゴミを燃やした灰を埋める為の穴堀り、
物資(主に服)の選定

【現地の状況(ライフライン、現地の雰囲気、避難者のニーズ等)】
<ライフライン>
通電しているが、
ガス水道は駄目。

ネット環境はないので、主に携帯電話が主な連絡手段になる。
食べ物を温めるために、いちいち火を焚かないといけないため、
電子レンジは重宝された。

なお、
冷蔵庫がなく貯蔵ができないので、
炊き出しで大量に食料が余ることはざらにあった。

<現地の雰囲気>
子どもたちは元気で「学校より今のアウトドアな生活が楽しい」と
言う子もおり、子どもは割と明るい印象。

一方で
大人はかなり神経質になっている

慣れない集団生活、栄養の偏り、連日来るボランティアへの気遣い、
今後の自分たちの生活など、かなり参っている印象を受けた。


 
<ニーズ>
求められているものは、圧倒的に人力

労働力が必要で、やることは無限にある。
1日でも、男性でも女性でも構わない。

物資で言えば、前述したように冷蔵庫が必要。

服はいらない。あとは
肉や魚、生野菜などが必要
食料は主に炭水化物が多く、栄養がかなり偏っている。


【感想、気付いたこと、伝えたいこと】
現地に赴いて、目と耳と鼻と口、手足のすべてを使って
この震災を感じてくることを強く、お勧めします。


メディア、インターネット、誰かが言っていること、
ここに書かれていること。
それらを鵜呑みにするのではなく、自分で感じてくること。


この震災に少しの関心があるのなら、
多少の時間と金、労力を使ってでも現地に行くことを
考えてみてはいかがでしょうか。






【これからボランティアに参加する人へのメッセージ】
僕が行ってみてわかったことは、
決して当事者にはなれないということでした。

被災した方々と誰かの人生を取っ替えることなんてできません。

「頑張ろう、ニッポン」
この言葉が無意味で、いかに空虚な響きを持つ言葉なのか、ということも
痛感しました。


けれど、僕はこれから何ヶ月、何年、何十年経っても
「頑張ろう、ニッポン」と言い続けますし、
ずっと僕にできることをやり続けようと思っています。



ここで一番のリスクはこの出来事を忘れ、
当たり前を当たり前のことだと、思考停止することです。

毎日入るお風呂、毎日食べる食べ物、
父と母と、弟と妹、友達がいること、自分が存在していること。

それらすべては当たり前のことじゃなく、
何かの節に崩れ去ることもあるということ。

━━━━━━━━━━━━━
僕は、この震災を忘れない。
━━━━━━━━━━━━━

それが僕が実際に被災地に行って決意したことでした。



どうか道中お気をつけて。





濱村拓巳@郡山市・ボランティア活動報告(4月29日~5月3日)






【活動場所】
宮城県南三陸町、福島県郡山市
(南三陸町の活動報告は
別記事に掲載)

【参加経緯と活動外情報(登録団体、移動手段、宿泊所、食事等)】
参加経緯は、もともと友達がおり
宮城に行った帰りに訪問した。
特に活動はしなかったが、避難民が住むところや、
建物が現地を案内していただいた。

【活動内容】

被災の影響を受けた建物を見学、郡山に住む若者や年配の方と
福島原発について意見交換




【現地の状況(ライフライン、現地の雰囲気、避難者のニーズ等)】

電気、水道、ガスともにOK。
駅前は震災の足跡は見えないが、
少し駅から離れるとひどく倒壊している建物がちらほら見かける
(ビルの1階が潰れて2階が落ちてきているものや、
壁や天井がはがれているもの)

倒壊以上にひどいのは、
人が郡山からいなくなっていること。
馴染みの飲食店が長期の閉鎖をしたり、
猪苗代湖をはじめ、観光産業が死んでいる。
また、若者の雇用場所がないために
子どもや若者がさらに離れることが予想される。

また、原発避難地域に当たっている
富岡町や川内町との共存も深刻な問題。
彼らは現在、「ビックパレットふくしま」に避難しており
家や地域を失っているが、将来的に国や東電からの補償を受けることができる。
一方で郡山市民はどうか?と言うと、
郡山市民もまた原発の影響を受けているにもかかわらず、
補償の対象にはなり得ない


そのため郡山市民と避難民との間には
同じ福島県民と言えど、大きな壁が存在する。







転載以上。


帰国したらまた行く。
1年には1度訪れる。


力になれなくても、足を運び
空気を感じてくることが、何よりも大事な気がしている。
震災の影響をほぼ受けていない者として、
この震災を忘れないことこそが、一番だいじなことだと僕は思う。